こども宅食応援団のビジョンは「すべてのこどものとなりに、ぬくもりを。」ミッションは「今日を生きるこどもたちのために、多様な人々が手を携え孤立を生まない社会を創る」です。私たちの理念を伝えて、目指す社会を皆さんと一緒につくりたい。そんな想いを込めて、ともに歩む方にお話を伺います。
今回は、弊会および京都市との三者協定のもと、2019年に「京都こども宅食プロジェクト」を立ち上げた、畑山博さんのインタビュー記事をお届けします。
産婦人科医である畑山さんは、「一生涯にわたって、女性とそのご家族の健康をサポートできる」という理念のもと、京都府で地域周産期母子医療センターを担う医療法人財団足立病院 理事長、京都こども宅食プロジェクト代表を務められるなど、女性と親子に寄り添う活動をおこなっています。

| 畑山博さんプロフィール 1995年、京都大学大学院医学研究科修了(医学博士)。 京都大学医学部附属病院産婦人科などを経て、1996年に医療法人財団今井会足立病院の院長に就任。 2018年より同病院理事長および社会福祉法人あだち福祉会御所の杜ほいくえん理事長に就任。 2019年、京都市・社会福祉法人あだち福祉会とともに「京都こども宅食プロジェクト」を始動。 |
1978年にイギリスの研究成果で世界初の「試験管ベイビー(体外受精児)」※が誕生したニュースを見て、大きな衝撃を受けました。現代でいえば、AI技術に感じるような驚きや探究心に近いものがあったかもしれません。試験管の中で赤ちゃんができるイメージが沸いて、まさにコペルニクス的転換という感じで「この不妊治療というもので、きっと世の中が変わる」という確固たる思いが生まれた瞬間です。
当時高校3年生だった私は、医学部に進んで産婦人科医になって、生命を生み出すことができる不妊治療を専門にしようと決めました。
※体外受精技術は、ケンブリッジ大学のロバート・エドワーズ教授と婦人科医パトリック・ステップトーが12年に渡る研究の末に完成させたもの。世界初の試験管ベイビーとして生まれたルイーズ・ジョイ・ブラウンの誕生は、その後の不妊治療の大きな希望となり、世界中の注目を集めた。
それまで教師を志すように教育をしてきた父には、「教師ではなく、なぜ医者になるのか」と言われました。そんなに反対されても、自ら望んで選んだ医学部での不妊治療に関する学びと研究は、本当に楽しかったです。そのくらい、探究心と学びへの意欲に貪欲でした。大学院を出てからは京都大学医学部附属病院と大津の日赤病院で働いて、当直で足立病院へ通っていました。朝6時から病院に行って、深夜12時まで働いて、帰って寝たらまた朝6時から病院に行くという生活でした。医者になってからがとても大変だったわけですが、それでも楽しい気持ちが上回っていました。
そのような期間が10年間程続き、35歳の時に足立病院の院長になりました。
当時の足立病院は、創立100年を迎えていましたが、出生率の低下により分娩数は年間80件もなく、今後は経営が厳しいと思われている病院でした。それでも足立病院の院長を引き受けることにしたのは、前任の院長から「畑山先生なら患者さんをいっぱい集められる。足立病院には100年の歴史がある。歴史は買えないよ。先生が一生懸命働いて、また足立病院の名前がみんなに知られるようになれば、ここで生まれた人たちが応援してくれる」と励まされ、これから何か大きなことが起こるかもしれない——そんな期待を感じたからです。
院長になって最初に、4つの目標を立てました。
①足立病院を、京都で一番の病院にする
②不妊センターを作って体外受精ができるようにする
③小児科をつくる
④医療的ケア児を預かる保育園をつくる
当時、京都で一番分娩数が多かった施設は年間800件ほどですが、それを超えるような病院にしたい、できるまでやる、必ずやると、院長になった最初の朝礼で、スタッフに話しました。
その年の足立病院の分娩数は、年間88件ほど。現在では年間約1,800件にまで増えています。最初の頃は、医師会などで無謀だと笑われても、30年前の目標をずっと思い続け、今はどこまでできているのか口に出して確認しながら、一つひとつを実現してきました。
――京都こども宅食プロジェクト、アンバサダーの高橋藍さん、塁さん兄弟(足立病院で産まれた)
院長になって3年目、まずは当初からの目標だった不妊センターをつくり、5年目くらいに小児科をつくりました。その後、社会福祉法人を作って保育園や子育て支援センター、医療的ケア児施設の開設、と展開してきました。医療的ケア児の施設をつくる際には、NICUもつくりました。
お産までの数か月だけではなく、その後もケアするような施設をつくることで、お一人のお母さんやご家族とのつながりが長く続くようになりました。
少しずつ軸足が子育て支援になっていきながらも、医療はしっかりやりましょうと病院のスタッフたちと話していました。不妊治療、妊娠出産、小児科、乳がん、腹膣鏡の手術もやるようになって、医療施設をつくって耳鼻科や眼科、皮膚科、内科も全部そこに入れたので、女性医療をやる病院というのがそこで完成しました。その次にもうひとつの車輪として、社会福祉法人をつくったのが大きかったですね。社会福祉法人の活動として保育園をつくったり、病児保育や医療的ケア児を預かる施設をつくったり、放課後デイサービスをつくったりしました。一生涯にわたって女性とそのご家族の健康をサポートできる病院を目指している足立病院と連携して、地域での「切れ目のない育児サポート」に貢献したいと考えている法人です。
私がこれほど子育て支援に力を入れるようになったのは、長男の誕生がきっかけでした。息子は、妊娠27週、1,000グラムの未熟児として生まれました。35年前、当時はそのような早産児が生存することはほとんどなく、上司からも「助からない」と言われました。しかし、息子は多くの困難を乗り越え、元気に成長して、現在は東京都世田谷区にある成育医療センターで未熟児医療に携わっています。
はじめは、不妊治療への思いから始まった医療の人生ですが、自身の子育て経験から「障害を持つ子も見られる産婦人科医になりたい」と思い、医療的ケア児施設や、お母さんの居場所となる保育園・子育て支援拠点などを作るようになりました。
――こちらは、お孫さんとの微笑ましいお風呂タイム
こども宅食を知ったのは、医療的ケア児の保育を始める際に、駒崎弘樹さんの運営する「ヘレン」※を見学に行った時です。「障害児支援も大事だけど、普通に生まれた子どもたちも食べるのに困っている家庭がたくさんある」と聞き、京都でも始めなければと思いました。
※認定NPO法人フローレンスが運営する「すべてのこどもが保育を受けられ、保護者が働くことを選択できる社会」を目指し、障害のある子の長時間保育を実現する日本で初めての保育園
最初は伏見区で88家庭への支援から取り組み、現在の支援家庭数は1,000家庭を超えていて、京都市の11行政区のうち7行政区をカバーしています。京都市全体では約2,000のご家庭が対象になりますね。
こども宅食は、「食べ物を届けること」は手段であり、「家族とつながりをつくること」こそが本当の目的です。食べ物を持っていくことで、その家とつながることができる。それは手段であり、目的はその家のお父さん、お母さん、あるいは子どもと繋がって、「何か困りごとがない?自分たちができることをするよ。今は大変だけど、頑張ろうね」という声をかける。
その関係性をつくること、エールを届けることが、支援の本質です。
――駒崎弘樹さんと、病院内で
こども宅食を届けるご家庭からは、涙がでるようなLINEが届くこともあります。
「シングルマザーとなり、コロナで職を失って子どもが家にいるけど食べ物がない。行政ともうまくいかなくて、自分たち親子はもう世の中から見捨てられたと思ってた時に、こども宅食の話があって食べ物が届きました。お米もいっぱいあったし、お醤油も入ってたし、おそうめんもあったし、本当に嬉しかった。でも、もっと嬉しかったのは、自分たち親子ってもう世の中から見捨てられて死ぬしかないんじゃないかと思ってたのに、誰かが見てくれてるっていうだけで、すごく心があたたかくなりました。もうちょっと頑張りたいと思います」
こんなメッセージをもらった時には、涙が出てしまいますね。
私は産婦人科医として、3万人のお産に立ち合い、子どもを取り上げてきた身として、子どもの誕生を心から喜び合える社会であってほしいと思います。
育児負担が大きいために、子育て罰みたいな言葉があるけど、子どもを産んだことで損をした、自分はつらかったって思われてしまうのは悲しい。お母さんには、「子どもを産んでよかったな。大変なことも色々あったけど、病院も市も助けてくれた」と思ってほしいです。
子どもが産まれることを心から喜び、子ども自身も、うまれてきてよかったなと思えるような社会を作りたいというのが、私の夢です。

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